尼崎で起きた福知山線の事故には、心が痛む。
心が張り裂けるような気持ちになるのは、もう十分だ。
僕は、大学でジャーナリズムを扱うゼミに所属している。
それゆえに、今回の脱線事故に関しての報道には、どうしようもないやるせなさがある。いや、自分自身に対するやるせなさなのかもしれない…。
僕らは、新聞やニュース、インターネットなどの報道を通してしか事故の悲惨さを知ることができない。僕自身、毎日ニュースや新聞にかじりついている。
マスコミは今、〝事故原因を徹底検証〟などと銘打って、鉄道アナリストだか元国鉄運転手だかを連れ出して事故の原因追求に躍起になっている。
確かに、事故の原因を明らかにする事は、今回のような惨劇を2度と繰り返さないようにするために重要だと思う。
しかし、今のマスコミがやっている事は純粋な事故原因の追究なのか?
『未確認の情報ですが~』
『○○の可能性が高いということですね?』
というような報道を見ていて、疑わしく思うのだ。
事故調査委員会が
『原因究明には、かなりの時間がかかると思われる』
と発表しているのに、
『運転手は経験不足で問題がありそうですね』
というような報道が多いのはなぜだろう?
別に、運転手に問題がないと言っているのではない。
実際、制限速度を超えたスピードで走行していたようだし、オーバーランについては虚偽の報告をしていたらしい。しかし、それらの事実がわかる前から『問題がありそう』としたのは、原因追求よりも誰かに責任をなすりつけたかったのではないか。うまく言えないが、誰かに責任を負わせることで『自分は悪くない』とでも言いたいような報道だと感じた。憶測を絡めた報道は、事実をも歪曲させる。客観的な立場に立った報道(本来そんなものがあるのかは別にするが)をすべきではないのか。
それにしても、JR西の事故後の対応には誠意が感じられない。
〝置き石〟発言に始まり、車掌が事情聴取されていることを発表しながらうやむやにするなど、何とかして体裁を整えたいという気持ちばかりが見える。
誰に対して謝罪しているのだろう。彼らの目は、被害者や犠牲者に向いているだろうか。
もうひとつ気になることがある。
被害者や犠牲になった方の遺族に対する報道関係者の姿勢だ。
僕は現場に居るわけではないし、報道の現場を理解しているわけでもない。
でも、テレビの画面から伝わってくる彼らの雰囲気は異様で、普通の神経だとは思えないのだ。
遺体安置所に向かう人を一斉に取り囲み、マイクを向ける。フラッシュをたく。
『JRに対して言いたいことは?』
『どなたが亡くなられたんですか?』
と、質問の嵐をぶつける。僕が家族の立場だったら、何よりも事故にあったことに対する悲しみが先行するだろうし、一人にして欲しいと思うだろう。
被害者や家族を取り囲むのは、彼らの怒りを増幅させるだけだと思う。
『あなたに代わって、僕たちマスコミがその怒りを代弁しますよ。それが役割ですから。』
と言うつもりだろうか。本当に被害者はそれを望んでいるのだろうか。
今回の事故を通して、報道のあり方にやるせなさを感じた。
しかし、始めにも書いたように、このやるせなさは僕自身に対するものでもある。
僕は報道のあり方に疑問を感じながらも、一方でそれを容認し求めているのかもしれない。事実に忠実な報道をすべきだと思うが、原因を早く知りたいとも思う。事故の事に心を痛めているが、「自分でなくてよかった」と、どこかで思っている気もする。そんなことを思うあまり、僕自身が報道に対してこのやるせなさをぶつけているのかも…。
しばらくの間、このやるせなさから脱することはできそうにない。
ただ1つはっきりとしているのは、
今回のような事故が二度と起こって欲しくないということ。
月並だが、被害者の方の回復と、亡くなられた方の冥福を祈りたい。